
第22回~平均律クラヴィーア曲全巻全曲の最終回
2026年5月10日、神戸中華会館にて、ピアニスト・上杉春雄先生による「バッハ平均律クラヴィーア曲集第2巻セミナー」が開催されました。
今回は第22回目。そして11年間にわたって続いてきた平均律第2巻セミナーの最終回です。
取り上げられたのは、第21番から第24番までのプレリュードとフーガ。午前・午後を通して詳細な分析と演奏が行われ、まさに集大成と呼ぶにふさわしい一日となりました。
レコーディングを通して見えた「何を伝えたいのか」
午前の部の冒頭では、上杉先生が今年初めに行われた平均律第2巻全曲録音についてお話しくださいました。
4日間にわたるレコーディングの中で改めて感じられたのは、
「技術的に整っていること」と
「何を伝えたいのか」は別の問題である
ということだったそうです。
特に印象的だったのは、
整えすぎた演奏をあえて壊し、表現の必然性を取り戻す方向へ舵を切った
というお言葉でした。
私たちは練習の中で正確さや完成度を追求します。しかし録音という極限の場では、その先にある「なぜこの音楽を演奏するのか」が問われます。
また、
「自分が実際にどのような演奏をしているのかを客観的に知ることは永遠の課題」
という言葉にも深く共感しました。
バッハ演奏に欠かせない構造理解
11年間の総括として先生が繰り返し語られたのは、
- 和声
- モチーフ
- ポリフォニー
- 修辞学的構造
を理解した上で表現を組み立てることの重要性です。
さらに、
- 上行
- 下行
- 長短調の性格変化
といった要素を総合してニュアンスを導き出すことが、良い演奏の土台になるとお話しされました。
単に音を並べるのではなく、「言葉として音楽を読む」ことの大切さを改めて感じました。
第21番 ― 親密な語りかけの音楽
第21番では、フィッシャーの作品との関連にも触れながら解説が進められました。
プレリュードでは音楽が次第に熱を帯びていく構造が巧みに作られており、クライマックスへ向かう「ため」の感覚が重要であるとのこと。
フーガではクラビコード的なビブラートを示す記号を含む半音階表現に注目し、
「可愛らしさだけではなく、ほろ苦さを含んだ表情」
が曲の魅力であると説明されました。
この作品の本質は壮大さではなく、むしろ親密な対話のような世界にあるというお話が印象的でした。
第22番 ― 機械的に弾かないために
第22番は特に時間をかけて解説されました。
先生は、ある音型に宗教的な呼びかけや祈りにも通じる感情を感じると述べられ、
「情緒の層を無視しないことが演奏の厚みにつながる」
と語られました。
また演奏上のポイントとして、
- 大きな跳躍
- 音域の急激な拡大
- 転調
などの場面では、機械的に進まず、十分に呼吸を取ることが重要であるとのこと。
さらに版の研究にも話が及びました。
初期稿では4分の3拍子で書かれていた可能性があり、楽譜の表記そのものがテンポ感や性格解釈に影響を与えるという指摘は非常に興味深いものでした。
第23番 ― 「愛する父よ、ありがとう」
午後の部では第23番が取り上げられました。
表面上は16分音符が続く技巧的な作品ですが、その背後には大きな音階進行や和声進行が存在しています。
細かな音だけを見るのではなく、大きな流れを感じながら演奏することの重要性が語られました。
特に心に残ったのはフーガの主題についてのお話です。
上杉先生の恩師である イェルク・デームス 先生は、この主題に
「Lieber Vater, danke schön(愛する父よ、ありがとう)」
という言葉を当てておられたそうです。
そのエピソードを語られる先生のお姿から、恩師への深い敬愛が伝わってきました。
また、
神から人間への接近、
そして人間が神へ向かって昇っていく
という神学的な読みも紹介され、音楽の奥行きを感じる時間となりました。
第24番 ― 終曲に込められた敬意
平均律第2巻の最後を飾る第24番。
先生は、この作品を単なる暗い曲としてではなく、
「懐かしさや切なさを含みながらも、前向きな力を持つ作品」
として捉えておられました。
フーガには舞曲パスピエの性格があり、
「ドレスの裾がふわりと揺れるような軽やかさ」
が必要だという表現がとても印象的でした。
さらに、第1巻第24番を想起させる断片が意図的に織り込まれている可能性にも触れられました。
これは単なる偶然ではなく、第1巻終曲へのオマージュとも考えられるそうです。
平均律全体を俯瞰した視点だからこそ見えてくる解釈の深さに感銘を受けました。
芸術は「第三のDNA」である
講義の最後には特別ミニセミナーとして、
「音楽や芸術は人間にとって何を意味するのか」
という壮大なテーマについて語られました。
生命の誕生から人類の進化までを俯瞰しながら、
人類最大の武器は身体能力ではなく言語能力である
と先生は説明されました。
言語によって知恵を共有し伝達する。
それは「第二のDNA」とも呼べる存在です。
そして、
言葉では伝えきれない感情や価値観、人生の知恵を次世代へ伝える営みが芸術である。
だから芸術は「第三のDNA」と呼べるのではないか。
という先生の思想には深く心を動かされました。
クラシック音楽は必ずしも経済的成功に直結する世界ではありません。
しかし、
人間がどう生きると豊かになれるのか
という知恵を次世代へ手渡していく役割を持っています。
その意味で芸術活動には大きな価値があるのだと改めて感じました。
11年間の感謝とこれから
11年間続いた平均律クラヴィーア曲集第2巻セミナーは、今回で一区切りとなりました。
しかし、これは終わりではありません。
来年9月には補足的なオプションセミナーも予定されているとのことです。
長い年月をかけて積み重ねられた学びは、これから私たち一人ひとりの演奏の中で生き続けていくことでしょう。
そして今回も、各曲の解説のあとに演奏された上杉先生の平均律は本当に素晴らしく、まるで言葉を語るような音楽でした。
いつまでも聴いていたい――。
そんな余韻を胸に、神戸中華会館を後にしました。
11年間にわたり貴重な学びを届けてくださった上杉春雄先生に、心から感謝申し上げます。
ご一緒に学んでくださったみなさま、ありがとうございました。


神戸北町のしばたピアノ教室 柴田 幸代





